無効用性を目指す。
それはつまり、効用性にこだわっているのと同じことだった。
無効用性という効用性に執着している。
何かのために生きない人生へのこだわり。


私は常に私を越えて行きたい。
自己同一性を確立すること、自分探しをすること、
それらはすべて間違っているように思える。

自分ではないものに触れるとは、その全てがまさしく事件であった。
自分ではないものに出会い、そしてそれを理解し、単純化し、自分の中に吸収する。
それは果たして本当に可能なことであるだろうか?
自分が自分になる、本当の自分を見つける、そうして変化したものは本当に“私”であったか?
自分ではないものに出会うことで、“私”はぶつかり、削れ、継ぎ足され、或いは新たな膜によって包まれ、或いは激しい摩擦によって発火する。
化学変化が、起こるだろう。それを我々は実感しているだろう。
つまり自分が自分であり続けることはある意味不可能に近い。
“私”という自意識を、それを成立せしめる精神が越えているのは自明なことである。
“私”はぶれる。揺曳を内に含む。


嗚呼、そうか。私は私ではなかったのだ。



続きます。